臼井レイキ療法とは!

臼井甕男(うすい みかお、1865年8月15日 - 1926年3月9日)はレイキとして世界中に広まっている手当て療法を中心とした民間療法の一種「臼井靈氣療法」(臼井霊気療法)の創始者である。
臼井靈氣療法です。1922(大正11)年肇祖臼井甕男によって開発された、手当てによる癒しの技術です。心身改善を目的とした手技です。肉体、精神の改善はもとより、DNAなどの悪癖の修正も可能、遠隔による活用も可能です。戦前にはのべ100万人以上の実践者がいました。第二次世界対戦ごGHQによる規制により臼井レイキ療法は日本から消えたと言われてます。
林 忠次郎(はやし ちゅうじろう、1879年 - 1940年5月11日)は、臼井甕男が靈氣療法(レイキ)のすべての内容を教える資格である「師範(「神秘伝」ともいう)」を与えた20人(または21人)のうちの一人。神奈川県出身。海軍兵学校30期、卒。海軍大佐
海軍を退役後、1925年(大正14年)に東京信濃町(現在の新宿区)に靈氣(レイキ)の診療所を開いた。診療所は8台の治療台があり1人の患者を2人の霊気療法家によりで施術する方式であったと伝えられる。臼井甕男が設立した「臼井靈氣療法学会」とは別に1930年に自から「林靈氣研究会」を設立し、靈氣を日本各地及び1938年にはハワイにおいても研修会を行うなどの普及活動を行った。独立後も靈氣を「臼井靈氣療法」として伝えている。
高田ハワヨ、(1900年12月24日 〜1980年12月11日)はハワイのホノルルで生まれた日系アメリカ人であり、レイキを西洋社会に紹介した人物である。
1917年3月10日、彼女が働いていた砂糖きび農園に帳簿係として雇われていたサイチ・タカタと結婚。1930年10月東京でサイチは肺ガンの治療中に34歳で亡くなったが、この時タカタ夫妻には2人の娘がいた。彼女は家族を養うために忙しく働いたが、そのため肺及び胃腸の様々な病気になり、神経衰弱から重いうつ病にもなり苦しむことになった。
この後すぐに彼女の姉妹の1人が亡くなり、タカタは両親にそのことを伝えることと、自分の病気の治療先を探す目的で義妹と蒸気船で日本に向かった。両親を訪ねた後、彼女は東京の病院に行き、癌や胆石等のために命にかかわる状況であると診断された。彼女はまず数週間かけて肺気腫から回復した後、虫垂炎等の胃腸の手術のために入院することになった。
手術が始まる直前の手術台の上で、タカタは「手術の必要は無い、手術の必要は無い。」と言う声を聞いたが、それは今までに聞いたことの無い声だった。それがどういう意味なのか不思議に思ったが、メッセージは3度目にはさらに大きな声で繰り返された。彼女は自分は意識は明瞭で、そんな声のことなど考えたこともなかった、と理解していた。それは不思議なことではあったが、医者に尋ねに行こうと決心させる力があった。彼女は手術台を降り、シーツで身をくるんで医者に話をしに行った。
タカタは手術医の長に手術を必要としない代替療法があるかと尋ね、皇居近くで診療をしている林忠次郎の診療所の連絡先を教えてもらった。林は後にレイキの「グランドマスター」[2]とされた人物である。林の治療によりタカタは毎日手当てを受け、目に見えて回復していった。4ヶ月後、彼女は完全に治癒した。この結果、彼女は日本のものであり日本のみにあるべきだと言われていたレイキを学びたいと望むようになった。レイキは日本国外の人間には教えられないとされていたが、タカタは病院の手術医と話し、この医師がタカタがレイキを学ぶことを許すように林を説得した。林は自分の妻以外の女性にレイキを教えたいと考えていたこともあり、タカタがとても熱心であったため、彼女に教えることを決めた。彼女は林の下で1年間働いた後、セカンドディグリーを受けた。
1937年健康になったタカタはレイキの開業準備にハワイに戻り、すぐに診療所は軌道に乗った。林は自分の施術技術を広めるためハワイを訪れた際に、彼の娘と共にタカタを訪ねた。1938年の冬、タカタは林から神秘伝(師範として他人にレイキを伝授できる)の伝授を受けた13番目の、そして最後の1人となった。
その後レイキは日本に逆輸入され1980年代に第一次レイキブームの到来!
霊気の本質を語ってられる

霊気は愛